2007年07月05日
小次郎敗れたり。
(タイトル写真 手向山砲台跡その2)
佐々木小次郎なる人物の歴史的な裏づけとなる文献はあまり無いようです。
巌流島の決闘に関する記述の中ではこの宮本伊織の建てた碑文がもっとも古いものだとのことです。
以下に碑文の小次郎との決闘に関する箇所を引いて見ます。
(ウィキペディア記事「小倉碑文」より)
「爰に兵術の達人、岩流と名のる有り。彼と雌雄を決せんことを求む。
岩流云く、真剣を以て雌雄を決せんことを請ふ。
武蔵対へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ。吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。
堅く漆約を結ぶ。長門と豊前との際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。
両雄、同時に相会す。岩流、三尺の白刃を手にして来たり、命を顧みずして術を尽くす。
武蔵、木刃の一撃を以て之を殺す。電光も猶遅し。
故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ。」(原文漢文)
1654年の碑文ですから、武蔵が亡くなって9年ほどしかたっていません。
しかし、この碑文にもすでに後の世の人の願望や演出が加えられている可能性があるようです。
武蔵本人は京都での吉岡一門との試合にはたびたび言及しているのに、
この試合に関しては黙して語ることがなかったそうです。
巌流一門の門弟と武蔵の門弟との確執が高じて行われ、
お互いに門弟は島へ近寄らせない約束を武蔵が破り、
勝負に負けたのち息を吹き返した小次郎は
武蔵の門弟により命を奪われる。
そのことを知った巌流の門弟が武蔵を討とうとしたが、何とか逃げ延びたなど、
これまでの伝説に比べるといかにも人間らしい説が、最近は有力なようです。
佐々木という名前も後世の芝居の中ではじめて出てくる名前なんだとか。
敷地の中にはこんな建物があって、
登るとさぞや、良い眺望が得られると思って登ってみるとそうでもありません。
きっと霧が出ていて視界が悪かったせいです。晴れていればすばらしかったと思います。
ここから、巌流島(舟島)も見える筈なんですけど…よく分かりません。
そして、明治はじめのこの砲台跡がこれです。
外国の軍艦が来たときにはここから関門海峡めがけて、
ドカーンと行くつもりだったようです。
でも実際に使用することはありませんでした。
第壱号から第五号までありますが、どういう具合に大砲が設置されていたのかについては説明があまりなかったので想像するしかありません。
このコンクリートブロックの中に大砲が据えてあったのかな?
第五号はほとんど土の中。
歴史の移り変わりに思いをはせるバラデロさんでした。
なかなか先に進みませんね。
次回につづく。
Posted by ぱたぽん at 22:14│Comments(0)
│キャンプツーリング
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。